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S氏

 

「今夜も生で〜」というNHKの番組がまた家のテレビに映っていた.

 

S氏は,わたしが苦手とする人物のひとりだ.

S氏の語ることからは,なんの感動も得られたことがない. テレビから流れる彼の声は,わたしにとっては苦痛でしかないのだ. 彼の歌も,トークも,どれもが不自然に劇調で,小学校の道徳の教科書に書いてあったようなことばかりが並べられていて,いつもウッとなってしまう. 彼は,"人が感動するであろう言葉" しか選ぼうとしない.

 

昨日,S氏はトークの中でこんなことを言っていた. 番組宛のお便りを紹介するコーナーで,S氏はある男の子からのFAXを読んでいた.

その男の子は,兄との会話の中で「お前には動物を殺して食べてまで生きる価値があるのか!」と言われたそうで,これをどう思うか,とS氏に問いかけていた.

するとS氏は,

「食べたくても食べられない人が世界にはいるんだから,ありがたく食べなきゃいけないよね.」

という内容のことを何度も繰り返し語った.

 

「与えられた食べ物はありがたく食べなければいけない」

これはたしかにそうだ,と思う. しかしわたしが引っかかるのは,「食べたくても食べられない人がいるんだから」 だ.

だからなんだというのだ.

そう言うと,わたしが「食べたくても食べられない人」に対して,勝手にしろとでも思っているようだが,決してそうではない. 世界には確かに日々の食事に事欠く人がたくさん存在して,それは深刻な問題だ.

そうではなくて,「生きる価値を比べるな」ということを言いたいのである.

 

わたしの通う学校はミッション校で,毎朝礼拝が持たれる. 祈りの時間に,たまにこういう祈りをする先生がいる.

 

「世界には,戦争や飢えで苦しむ人々がたくさんいます. どうかその人たちに,私たちと等しい恵みをお与えください.」

 

「私たちと等しい恵み」とは,思い上がりも甚だしいものである. 「私たち」は「世界の苦しむ人たち」より神様に恵まれています!と宣言しているようなものだ.

会ったこともない他人と「恵まれ度」を比較して,それで初めて自分たちがいかに恵まれているかを実感するというのは,比較した相手が恵まれていないと決めつけているのと同じだ.

 

「生きる価値」とか「生きる意味」などというのは,もともとどこにもない. だが人間は考える生き物だから,自分の生きる意味がないと生きていけないのだ. だからわたしたちは,他人と比較して自分の「価値」をはかってしまう. それを維持するために,無意識のうちに他人を貶め,「自分より恵まれていない」他者を探してしまうのだ. 

「自分の価値」など,いくら他人と比べたところで生まれてくるわけがない. わたしたちはある意味で,自分ひとりで生きられるようにならなければならないのだ,と思う.